血の酩酊

ロシアイルクーツク地方のとある小さな村。シベリア鉄道のイルクーツク駅から200kmほど北東に位置するこの村は、かつては鉄鉱石で栄えていたが廃鉱になり栄華は見る影も無くなっていた。
山間には野犬が出没し、今まさに1頭のイノシシを襲うべく取り囲んだ。
1頭の野犬がイノシシに飛び掛かり喉ぶえに喰らい付く、イノシシは暴れまわり振り解こうと必死に暴れまくる。
しかし野犬は2頭、3頭と次々に襲いかかり腹、脚、背中、イノシシの体中に喰らい付いた。
乾いた空気が血の匂いに変質していく。野犬たちは一層興奮し攻撃の手を緩めない。イノシシは血だるま、野犬たちも血みどろ。ついにイノシシは力尽き倒され、野犬たちは勝利の遠吠えをあげた。
もちろん、イノシシのような巨大な獲物を襲った野犬たちもダメージは大きい。
単純な闘争本能だけで襲ったのでは無いからだ。野犬たちは酩酊状態のようにふらふらになりながらも戦利品を森の中へ引きずり消えた。
村から少し離れるとちょっとした町がある。ここに評判のレストランがあった。『ゾーリャおばさんの台所』ゾーリャと一人息子チェルノボグが切り盛りする洋食店であった。チェルノボグは爽やかな青年でチェルシーの愛称で呼ばれていた。
チェルシーと呼ばれているからなのか、この店のスコーンはとりわけ評判だ。決め手はなんといってもクロテッドクリーム。ダブル・デボンシャーのクロテッドクリームなのだが、これと季節のフルーツジャム無しでは、もうスコーンは食べられない。クロテッドクリームほど濃厚なコクで芳醇な香り軽い口当たりのクリームは存在しない。ジャージー乳特有のスウィートバターになるか酸化してサワークリームになるか迷っているところで、突然気が変わり、滑らかでクリーミーな液体の中にあるバターのような味わいだ。
さらにこの店の評判を決定付けた料理がガチョウのローストだ。ウオッカが切れたロシア人の機嫌が悪くなるのは、このガチョウのローストを食べたことが無いからである。ガチョウのローストは、脂肪の素晴らしさを人々に知らしめ、人生さえも変えてしまう。金色を帯びた皮といい、ジューシーで脂っぽくて風味豊かな肉といい最高である。北京ダックなどガチョウのローストに比べたら遠く及ばない。金色に輝きパリッとした皮と肉の間にほとばしる脂肉汁は共通だが、肉本来の味の深みが違う。ガチョウのローストはひとくち、口に入れた瞬間に脂が解け出し、脳内を満足感で飽和してくれる。この感覚がひとくちひとくちごとに繰り返すのだ。まさに快楽の絶頂を極める至福のひと時を堪能できるのである。
そして、この素晴らしい料理に華を添えるのが、この店のオリジナルジンジャーソース。
チェルシーが完成させた完璧なソースで、その製法はゾーリャにさえ教えなかった。
「チェルシー、ソースが無くなりそうだよ。」
「あぁ母さん。今日はもう閉店も近いし、この後取ってくるよ。」
「この後?」
「大丈夫だよ、ストックもあるし、取ってくるだけだから。」
「遅い時間に心配だね。」
「大丈夫だよ。慣れた土地だし。心配しないで。あ、じゃあちょっと早いけどもう行くね、あとよろしく。」
彼はそう言い放つと店を出て行ってしまった。

翌朝、チェルシーはベッドに寝ていた。ゾーリャが部屋に入るとやさしく声を掛ける。
「チェルシー。ソースありがとうね。」
「あっ母さん。おはよう。」
「そうそう、今晩ポーランドから料理雑誌の記者が取材に来るって。」
「ん?今日?」
「たまたまイルクーツクに居て、うちの評判を聞いて取材したいって、昨日お前が出かけた後電話があってね。」
「うん、わかった。もう少し寝かせてくれ。」
彼は羽毛布団の中に潜り込んだ。
夜になった。店は相変わらずの大賑わい。取材の噂を聞きつけたチェルシーの悪友3人も駆け付けた。
「チェルシー凄いな!ポーランドから取材だって?」
「あ、ああ。」
「なんだよ浮かない顔して。町一番の秀才が入院しちゃった時には俺はもう。」
「おっおい、その話は。」
デリケートな話題を持ち出した友人を別の友人がたしなめた。
「い、いや、ほらでも、もう20年も前だし、こうして脚光を浴びる舞台に戻ったのはさすがチェルシーって事だよ!」
「そうだな!あはは!」
ウォッカで良い気分の友人たちは勝手に盛り上がっている。チェルシーは黙々と仕事を続ける。
「いやぁ~でも犯罪心理学だっけ?専攻は?チェルシーはKGBになるものだとばっかり思ってたよ。」
「バカ!俺達のチェルシーがKGBなんかになるかよ!俺は今のチェルシーが最高さ!」
「そりゃお前は3回も逮捕されたからな!ははは!」
チェルシーが興味を示し仕事の手を止めた。
「お前逮捕されたのか?」
「ああ、ふふふ。3回逮捕さ。」
「なんで?俺が入院してるときか?初耳だぞ?」
「いやぁくだらない理由さ。1回目は鉱山に10分遅刻しただけだったのにサボタージュと因縁つけられて。3か月で出られたが次は10分早く出社したらスパイ容疑で逮捕さ。」
「がはは!こいつ素行が悪いから目を付けられててな。3回目の逮捕なんて傑作だぞ。」
「そう、3回目は時間ピッタリに出社したんだ。時間ピッタリだぞ。そしたら西側の腕時計をしてるって理由で逮捕さ。」
がははははは。
全員で大笑いした。
「あ、そうそう、テイカー居ただろ、あいつも逮捕されたんだぜ。」
「そうそうあいつさ、市長が演説で、諸君、二年後には電気の供給が止まってしまう!と言ったら、一日12時間働こう!って叫んで。諸君、五年後には天然ガスが枯渇する!と言ったら、一日18時間働こう!って叫んで。十年後には食糧の配給も止まる!って言ったら、一日24時間ぶっ通しで働こう!って叫んでさ。演説会場盛り上がって
市長に呼ばれてさ。でさ、ふふふ、あははは!もう駄目だ、お前続き話せ!」
「市長に職業聞かれて、葬儀屋だってばれて逮捕だよ!あははははは!」
会話が盛り上がっていると、立派なひげを蓄えた恰幅の良い男性と、派手で妖艶な魅力的な女性が入ってきた。
「機関誌、料理の娯楽のダレサです。彼女はナディア。」
ポーランドの記者と同伴の女性だった。
ゾーリャとチェルシーは自慢の料理を振舞う。
輝く脂肪をまとったガチョウのローストがナディアの口に運ばれる。彼女はその芳醇な肉を噛みしめ、そっと目を閉じる。
「エクスタシー。」
一言静かに言葉を発した。
続いてダレスがカモのローストを食した。周りの客達は彼に注目する。
「血の味がする…。」
この空間の一切の音が消えたような静寂が一瞬訪れた。
「お、おい!兄弟!てめぇ、チェルシーの料理に因縁つける気か!」
友人の一人が静寂を破ってダレスに食って掛かった。
「いやはや、ソ連の高慢さがこんな田舎まで。君らは我が国を兄弟国と呼ぶが全く不快だ。せめて友好国と呼んでくれればいいものを。友人は選べるが家族は」
ダレスがそう言うか言わないかのタイミングで、怒鳴りつけた友人が襲い掛かり、店は大乱闘と化した。
鉄条網に囲われた広大な土地に3台の大型バスが止まり、次々に人々が降りてきた。
「ここが、かの血の酩酊事件があった町です。ロシアがソ連時代に2のKGB職員を派遣して、人間の血を町中の人間に与え続けました。巧妙に調味料に混ぜていたのです。
血の酩酊とは、ドイツの精神医学会で生まれた言葉で太古の人類にとって、狩猟は大きな危険と恐怖を伴なうものでした。太古には、狩猟もなければ鉄の刃もない。石や棍棒などで、猛獣との接近戦を行わなければならない。こうした恐怖に打ち勝つためには、狩猟をしなければ生きていけないという義務感だけでは弱い。そこで、人間の遺伝子の中に組み込まれたのが、獣から流れる血を見るとエクスタシーを感じるという遺伝子でした。そこでこの遺伝子を呼び起こすため、人に人間の血を与え続け、その気性の変化を観察していたのですが結局。町の人々はお互いを殺し合い、ゴーストタウン化してしまいました。」
ガイドの説明に皆が震えあがった。涙を流す者も居た。
そんな大勢の観光客の中に、チェルシーの姿がある。もう高齢だ。
罪の贖罪なのか彼はこの地を訪れた。大勢の観光客に紛れて心の平穏を保とうと考えたが、周りの人々の反応、批判、怒りを耳にするたび、彼の心は罪に打ちひしがれていった。
「そうするしか無いなら乗り越えられるさ。」
チェルシーは静かにつぶやいた。